ある男の記録(一雪+女審神者)
ある男の記録
一
こうして机に向かって筆をとるというのも、どれくらいぶりのことでしょうか。もしかしたら生まれて、否、この身体を得てからはじめてのことなのかもしれません。霧がかった湖畔から、向こう岸の景色を探すような、ひどく頼りない心持ちで、私はこれを書いています。何かを掴もうと手を伸ばしますが、掴むことのできるものなど空中に、ましてや湖の上になど浮いている筈もない。それでも手を伸ばすのはきっと、より遠くへと届かぬかと、探る心のあらわれでしょう。手を伸ばしたくらいでは届くはずもない距離を、測る真似事をしているのでしょう。もう白く霞んで見えなくなってしまった向こう岸にはきっと、私の求めるものがあったのではないか。そんな、夜分に見る夢よりも不確かな、ささやかな希望をもって。否、それこそを絶望と、人は呼ぶのかもしれません。
私がこれを書き始めたのは、自分の記憶が少しずつ消えてゆくことに気付いたからです。特に、弟たちのことを忘れかけているという事実は、私にとって重大です。弟たち。私にはそう呼べる存在が、数多く居ました。ここには兄弟を多く持つものがたくさん居ますが、私ほど多くの兄弟を持ったものは、他に居ませんでした。弟。私たちはおそらく、仲の良い兄弟でした。しかし私はどうしたことか彼らのことを思い出せなくなってゆくのです。彼らがどんな顔をしていたのか、どんな声をしていたのか。どんなふうに私を呼んだのか。その、名前も。今、これを書いている私の背後を、幼い足音が駆けて行きました。もしかしたら、あのどれかが私の弟なのかもしれません。けれど、そうだとしても、私にはもうわからないのです。一体全体、どうしたものかと思うでしょう。この拙い記録を読んでくれる人が居るならば。居るとしたらあなたはきっと、幸福な世界を生きているのでしょう。こうして一刻前の記憶すら霧に飲み込まれてしまう恐怖とは、無縁の。
話を戻します。私には確かに、沢山の弟が居たのです。彼らが存在したことを記憶しているだけ、まだ良し、とすべきなのかもしれません。けれども私はおそらく、最初に弟を忘れかけてしまったとき、ひどく困惑し、焦り、今までにない恐怖に襲われたのです。嫌な汗をかいたかもしれません。何故そう思うか。それは私が、こうして思いのうちを文にしたためることが全くもって不得手だということを、今まさに筆を動かしながら、思い知っているところだからです。それに気付く間も、それどころか考える暇もなく、私は忘れる恐怖に立ち向かう為に慣れない筆を手に取ってしまったのです。今やその時分の気持ちすら、薄れてしまった。私は今、とても静かな心でこれを書いています。
愛する者を忘れてしまうということは、たいへんに、恐ろしいことです。改めまして、そういうわけで、私は書き記すことにしたのです。弟たちのことも、もちろん。けれど、もっと儚くて、今にも消えてしまいそうなそれを。ああ、こうしている間にもその名前すら忘れてしまいそうな、あのひとのことを。この生をかけて愛した——確かに、私は愛したのでしょう。あのひとのことを。
二
私が私の今生に関する一切をすっかり忘れてしまう前に、まず、あのひとの名を記しておきたいと思います。ここまでを読んでいただいた貴方は、既に、私がこれほど悠長に、まわりくどい文章を心のままに綴っていることを心配していらっしゃるかもしれません。筆を動かす間に、必要なことを忘れてしまうのではないかしら、と。ご心配なく。必ず書き記しておきたいことのおおよそは、既に、手帳に留めてあります。何度も、同じ言葉を綴っております。こうしている間にも忘れてゆく私ですから、その言葉を選んだ時に何を思い、綴ったのかを思い出すことは困難です。それでも、勢いに任せて書き殴ったように、何度も、何度も現れる「言葉」に私は、ただならぬ情熱を見るのです。今や失われてしまったその日、その瞬間の私の情熱を。それは死地へ赴く勇気であり、また、あのひとへの愛であったでしょう。
江雪殿。私の手帳の走り書きに、最も多く現れる名です。時に荒々しく、時に慈しむように、何度も現れる名の持ち主を、私は確かに愛していました。江雪左文字。美しい太刀。もう、その姿を見ることも叶わない。
雪の降る冷たい川を思わせる名は、なんと、寂しい響きを持っているのでしょう。冬のある日、灰色の空から川へと降る雪。音もなく、色もない世界。私は手帳に幾つも綴られたその名を見る度に、そんな景色を思い浮かべます。にもかかわらず、そのすぐ後には彼を思う言葉の数々、燃えるような情熱と、とろけんばかりの甘さを持って続いているのです。他でもない、私自身の筆跡で。
私は彼の深く、青く澄んだ目を愛したのでした。冬の川のような名を持つのに、彼の目は暖かな海のように、私には見えます。それは彼の心優しい性質が、そのまま映されているからでしょうか。長い髪をさらさらと風に乗せ、続く戦に心を痛め、美しい目を悲しく伏せる人。けれど、よく晴れた日の下、光を受けて輝く睫毛を揺らし、ゆっくりとした瞬きの間に、静かに微笑む彼の姿を、その美しさを、私は知っています。それは彼の愛する野の花が、春の日に一斉に開くように、夏の熱に果実が熟れるように、秋の山が燃えるように、冬が白く染まるように、彼がその手で慈しむ命の移り変わりが与えるのと同種の感動を、私に与えてくれます。彼の唇からこぼれる言葉は、私を安らぎへ導く歌。彼が私を呼ぶ声は、渇きに潤いを与える清らかな水。私にとって彼は、どれほどまでに眩しく、麗しい存在だったのでしょう。夢見がちな言葉の数々を辿り、その愛を再び書き起こそうとする今の私には想像もつかないほどに、これを綴ったときの私は彼に心を奪われていたのでしょうから。
彼を思い心に秘めた言葉の、それら全てをここに記すのは、流石に気恥ずかしく、はばかられます。けれどそれを一人、指でなぞりながらその日、その瞬間の私の心に思いを巡らすと、失われた情熱が戻ってくるよう気がしてくるのです。顔を思い描くこともできない、愛しい人。失われる前の私が、貴方をどうやって、そしてどんなに愛していたか。それを思い出しながら——もはや、記憶から消えかけているので、すっかり思い出すというのは不可能な話でしょう。それでも、手帳の文字から辿ることのできる僅かな記憶と、私のできる限りの想像をもって、愛の記録をここへ残したいと考えています。私の愛が、そしてきっと、彼が私に与えてくれたであろう愛が、この不確かな記憶に一筋の希望の光を投げかけてくれることを信じて。
三
私がこの本丸に「刀剣男士」として顕現したのは、主が審神者としての活動を始めてから、早い段階であったと聞きます。確かに、私が人の身を得たばかりの頃は二、三の部隊を組むのがやっとの人数しかいなかったにも関わらず、いつの間にか刀剣男士の数は増え、大所帯と言えるほどになっていたのでした。いつかそのことについて、いつの間にこんなに刀剣が増えていたのだろうねと、まるで他人事のように呟いたところ、沢山居る弟のうちのひとりに「まったく、いち兄は変なところでぼんやりしているんだから」などと呆れられたのを覚えています。肝心の、その弟が誰だったのか、思い出せないのが寂しいところではありますが。
どうやら私にとって、城に新しい刀剣が増えるということはごくありふれたことで、そういった感覚ゆえに、仲間が増えてゆくことへの関心が他の者に比べて薄かったのかもしれません。それはかつて私が人の姿を持たぬ、刀剣そのものであった頃、ある時の主が広く刀を集めていたこと、その記憶が刀剣男士としての私に強く根付いていたからであると、私は考えておりましたが、ほんとうのところは私にも、そして今の主にもきっと、わからぬことです。
こういった私の気質はまた、私が「人」というよりは「刀剣」である意識が強いということを示していました。それは仲間に対してだけではなく、戦に赴く時の自らの心構えについてもまた、同じでした。刀は戦のために生まれます。ましてや我々は戦いを宿命として与えられ、その為に存在を許された刀剣男士なる存在。戦のために生き戦の内に散るは誉、と言うよりも、疑いようもない当然のことであったのでした。
一方で、江雪殿は「人」としての意識の強い刀剣であったように思います。少なくとも私にとっては。そしておそらく、主にとっても。このことが後に、私たちにとって恐ろしく忌々しい出来事の引き金を引いてしまったとも言えるのですが、だからといって彼がそうやって生まれたことを嘆いたり、運命を呪ったりなどはしますまい。私はそんな彼を、そんな彼だからこそ、愛したのですから。今も、愛しているのですから。
江雪殿が顕現した日のことは、長らく、私の意識の内に強く刻まれていました。今となってはその日の記憶は、感情を込めた言葉となって、私の手帳に残るばかりです。非常に拙い言葉で、お世辞にも上手いとは言えない筆跡で、残るばかりです。
雪の降る夜でした。あのころ主は、本丸の庭に冬を呼べるようになったと子供のようにはしゃいでいました。この本丸の四季は自然の移り変わりからなるものに見えて、その実、主の意志で動かされている仮初めの季節に過ぎません。ですが、その季節の移動も全くの自由というわけではなく、主に審神者としての役割を与えた政府なるものによってある程度制限されていると言います。その頃主は日々の功績を認められ、始めての「季節」を手に入れることができたのでした。主にとって始めての季節、小雪舞う冬という季節にやってきた刀こそ、あの冷たいほどに澄んだ雪の夜に似つかわしい、江雪左文字という太刀でした。
私が彼との出会いを、他の刀剣男士に比べて強く印象に残したのはただ、その日私が近侍代理として鍛刀の助手に当たったからでした。彼との初対面に運命的なものを見いだしたりしたのでしたら、それもロマンチックだったのでしょうが、残念ながら私の記録にそういった記述は見られませんし、今の私が考えてみても、そういった気持ちがあったとは考えづらく思います。けれどもその夜の雪に、彼の姿——その長い髪や、青い目がよく映えていたということは、私にとって衝撃であったと記されていますから、幽玄の美とでもいうのでしょうか、人の愛するそういった美の在り方に疎い私の心をも動かした彼は、初対面から私を引き付ける何かを持っていたのかもしれません。
四
江雪殿が私を好いてくださったという事実は、私のこの生において、大変に幸福なことでした。刀剣として生きる以外の道を、彼が教えてくれました。「刀剣」としての意識が強い私と、「人」としての意識を持つ彼。一歩間違えば反発し合うこともありそうな二人でしたが、不思議とそういったことは、我々が離れるその時までありませんでした。それは彼の静かで穏やかな性質のおかげであるでしょうし、また、私にしても敵対したもの以外と争うようなことは好みませんので、そういうところがうまく噛み合ったのだと思います。一方で、江雪殿の持つ美点のうち、私がいくら求めても手に入れることのできないものについて、嫉妬に近い羨望を抱いていたこともまた、事実です。今も強く美しく残る健全な刀身はその最たるもので、過去に出会った火災により焼けてしまった私には決して取り戻すことのできない栄光でした。しかし江雪殿は、その強さすらも戦うための力だと言って悲しむので、私は、それを羨む私が惨めに思えて、敬愛の反面、複雑な感情を持っていました。それは、認めなくてはなりません。純粋に、清らかな愛ではなかったでしょう。
それでも、私が江雪殿に抱くいくつもの思いに「愛」という名を与えたいと思うのは、私のこの我儘とも言える剥き出しの感情を、彼がいつも優しさでもって包み込んでくれるからなのです。いつしか私が、刀剣の時代の戦の夢にうなされ飛び起きた夜。あの日は特に酷く、私は体の渇きから逃れるため、そして、まだ興奮する脳を冷やすために水場へ向かいました。頭から水を何度もかぶりました。けれども、消えぬ火種がいつまでも燻っているようで、少しもすっきりとした気持ちになりません。私は焦り、恐れました。もう二度と、この悪夢の支配から逃れられないのではないかと。
そこに通りかかったのが、江雪殿でした。こんな夜更けに物音がするのを、気にして出てきてくださったのでしょうか。江雪殿はびしょ濡れの私の姿を見つけると、いつもの静かさからは想像もつかない慌てた様子で、ふらつく私を抱きとめました。恥ずかしい事に私は、江雪殿の腕の中で緊張と最後の力をすべて解き、気を失ってしまったのです。気付いた時、朝焼けの中で江雪殿が微笑んでいました。青い目に、銀色の睫毛に反射した光が溶けて、美しいと思いました。しばらく見つめていると、江雪殿が気まずそうに目を逸らします。そうしてようやく、私は自分の置かれている状況に気付いたのです。昨晩の記憶が一気に蘇ってきて、私は江雪殿に非礼を詫びました。よく見れば、濡れた着物は壁に掛けられ、私は江雪殿の寝間着を着せてもらっていました。恥ずかしいやら情けないやらで、頭に血がのぼるようでした。けれど江雪殿は、そんなことよりも、私の無事を喜んでくれました。
「あなたが、明るい顔をしてくださって、安心しました」
そう、笑いました。彼のそんな笑顔を私はそれまで見たことがなく、登り始めた朝日の頼りない光の中で、こんなに美しいものは見たことがないと思いました。そうして、それまで、仲間として接してきた江雪殿の、秘められた強さや美しさがすべてここに結ばれることを知りました。優しく、温かく、美しいひと。私は彼を、思わず抱きしめていました。彼の手が、恐る恐る私の背に回ったのを、私はまだ、思い出すことができます。私が彼にどんな気持ちを抱き始めたかということを、その時彼は、気付いていたでしょう。抱きしめ合ったまま、もう一度短い眠りにつきました。次に目覚めた時、私たちの距離は確実に、変化していました。
そうして私は、彼によって、人の「愛」を知ることになったのです。
五
今日は何時になく、天気の良い日です。陽の光は縁側に注ぎ、その彩の中を、木の葉の陰がゆらゆらと泳いでいます。それほど強くない風は、忘れた頃にふと、微かな花の香りを連れてきます。あの方は小さな花が好きだった、と、覚えてもいないのに、さも思い出したかのように、考えます。あまりに穏やかな日です。こうしていると、私にもいよいよ終わりが近付いているのだと予感します。
この本丸にあと、幾人の刀剣男士が残っているのでしょうか。時折、私以外の足音や、息づかいや、気配を感じますから、誰かが残っていることは確かです。しかしながら私は、彼らの姿を見ることができません。声を聞くこともできません。それはとても寂しいことです。人にとって「寂しい」という感情がいかに大きなものであるかを思い知ります。主も、寂しかったのでしょうか。
私に残された時間もそれほど多くないでしょうから、今日は、私の「主」について記します。
刀剣としての私は、これまで幾人もの人間を主としてきました。けれども「物」である刀剣に人の姿を与え、人として扱う主に出会ったのは、私という刀剣の持つそれなりに長い歴史のなかでも初めてのことでした。
視覚というものを、初めて得ました。両の目で見た初めての存在が、主でした。そのとき私の脳裏に、流れ込むように過去の記憶がなだれ込んで来ました。過去に仕えた主のこと、それから、渡り歩いた景色。そして目の前に座る者が「人間」の「女」であることを認識したのでした。同時にそれが、私のこれからの「主」であるということを、刀としての本能で感じ取ったのでした。
主という女は、私に人としての様々のことを教えました。刀剣は人間と同じつくりをしていませんから、人と同じ感覚で認識はしませんが、刀剣としての感覚で得た認識というものがどうやらあったらしい。それを「人間」の感覚と結びつけながら、私は刀剣であり人である、刀剣男士としての在り方を身につけていったのでした。それは私だけでなく、他の刀剣男士たちも同じであったようです。
けれども私には、他の刀剣男士とは違うところがありました。それは私の刀剣としての記憶や思い出には、どうも曖昧な部分や抜け落ちた部分が多いということです。
夜になると、嫌な夢を見ました。燃える城と、私自身が焼ける夢です。逃れるように飛び起きると、真夏でもないのに身体中に汗をかいていました。目に映るのはいつもの自室で、炎なんて無いのに、まだ喉が焼ける気がして、水場に駆け込んで浴びるほど水を飲みました。人の身に慣れてしばらくして、私は抜け落ちた思い出の代わりに、この夢を見るのだと知りました。私の思い出は抜け落ちたのではない、焼けたのです。
そういう私を、主はひどく心配しました。「あなたは繊細なんですから」と、枕元に膝を揃えて座り、細い眉を下げる。私が夢にうなされ、そのまま高熱を出し起きあがれなくなったときのことです。横になる私を見下ろす主の長い髪が、彼女の顔に陰を落とし、病に倒れた自分自身よりもよほど痛々しく見えました。大丈夫です、と、少しも大丈夫ではない声で主に応えました。その時主の目から、大粒の涙が溢れました。私の手帳に残る、数少ない、主との幸福な記憶です。
主は戦を嫌う人でした。戦だけではなく、人が傷つくこと、弱ること、すべてを嫌っていました。そして誰よりも、主自身が臆病で、傷付きやすい、弱い人でした。刀を振るうには、誰より向いていないように思えました。
「志半ばに散った英雄の魂が、植物の姿をとって生まれ変わるのは、ご存知」
いつかそう言った主の顔は、笑っていたように思います。消えてゆく記憶の中で、何故か主の言葉だけは、記録せずとも容易に思い出せました。主の顔などはもう、少しも思い出せませんが、この言葉の響きと、そのとき主は笑っていたのだという事実。これはきっと、私の最後の日まで残る、最後の記憶となるような、そんな気がしています。
最近の私は、毎日思い出すべき事柄を書き出して、枕元に置いて眠ります。朝になればその幾つかを忘れていますが、書き置きを見ることである程度思い出すことができます。放っておくと忘れて行きますが、忘れかけくらいの時に思い出すようにすれば、完全に忘れてしまうのを防ぐことができることを、私は学びました。
戦嫌いで臆病な主。彼女が歴史上の数多の名刀を束ねるなど、最初から、無理があったのかもしれません。彼女を恨む気持ちも未だ残れど、それよりも、ただやるせなくなるのは、私自身の終わりが近いからでしょうか。ぼんやりとした記憶の中、暗い部屋の中から庭の刀剣男士たちを見つめる主の姿を微かに思い出します。彼女はいつもひとりでした。たくさんの刀剣男士に囲まれながら、ひとりでした。近侍は彼女を気遣いました。各部隊の長も、彼女に勝利を持ち帰るべく戦いました。それでも彼女は、ひとりでした。ひとり、暗い部屋で、悲しく微笑んでいました。
戦が嫌いだから。行ってほしくなどないのだから。
それでも、全ての刀剣男士は戦うために存在します。戦いを否定するのは、彼らを否定するのと同じでした。そんな彼女が他のどの刀剣でもない、江雪殿をとくべつに愛したのも、無理もないことでした。
物に宿る魂を呼び起こす、審神者の業。それを認められ、政府から一振の刀を与えられた彼女は、この本丸に集う全ての刀剣の主となる運命を背負いました。その運命のはじめ、最初に与えられた仕事は、彼女の刀を戦場へ送り出すことでした。
彼女の最初の刀はそこで、ぼろぼろに傷付きました。当然のことです。練度も低く、補佐する仲間もおらず、彼を守る刀装すら用意されていない状態で、戦場へ送り出したのですから。それは政府が、主に戦の現実を突きつけるために敢えて、そうしたのです。臆病な彼女のことですから、本当はそこで命を投げ出してしまいたかったことでしょう。けれど彼女は、その傷付いた刀剣を放っておけなかったから、時分が呼び出したせいで、こんなにもぼろぼろになってしまった刀剣を放っておけなかったから、その気持ちひとつで、彼の、そして彼のあとに続くであろう多くの刀剣たちの「主」になることを受け入れたのです。
彼女の二つ目の仕事は、近侍と共に新しい刀を鍛刀することでした。その任に当たる頃には、近侍も補修が終わり元気を取り戻していましたから、主もこの仕事には比較的穏やかな気持ちで臨むことができたといいます。彼女と、彼女の近侍が出会ったのは、鋭く光る短刀でした。主と近侍と短刀と、その三者から、この本丸は始まりました。最初は何もわからず、手探りだったと聞きます。やがて刀剣を保持し、付喪神を呼ぶための玉鋼、砥石といった資源が増え、また刀剣たちが出陣した戦場で迷っていた刀剣の魂と出会うことも増え、新たな刀が刀剣男士として顕現すると、本丸での彼らの生活はだんだんと軌道に乗ってゆきました。近侍と短刀、主の最初の刀たちは、ともに物静かな性分でしたが、苦楽をともにするうちに、主と打ち解けていったそうです。彼らには兄弟と呼ぶべき刀がある、というのも、彼らとの会話の中で主が直接聞いたことでした。
兄弟がいるなら一刻も早く会いたいことでしょう、と、主は思ったようです。特に、幼い子供の姿で顕現した短刀については、彼の日々の振る舞いがどうにも寂しげに見えたらしい。できるだけ早く彼の兄弟を呼ぼうと、戦よりも刀の収集に力を入れたと言います。その甲斐あって、ひとつ上の打刀の兄は間もなく顕現しました。けれど、いちばん上の兄を呼ぶことはなかなか叶わない。主は短刀を励ますつもりで、焦り始めた自分を宥めました。そうやって、まだ見ぬ一振りの太刀について、主は特別の感情を育てていったのです。
そして、その日は来ました。この本丸に初めて降る雪の中、彼は現れました。江雪左文字。主の最初の短刀の兄。戦の世を憂う、実践向きの豪壮な太刀。
私の記憶と、記録からすれば、戦を好まぬ刀剣は江雪殿以外にも居たはずです。彼らは皆刀剣ではありますが、全てが戦場を駆け抜けた実戦刀というわけではなく、宝物として受け継がれてきたものもまた、数多いのです。中には人の祈りの場に奉納されていたものもいたはずですので、そういうものは特に、人々の心に寄り添い、平穏を願う性質を持っていたはずです。そういった事実がありながらも、主の戦を嫌う性質が、江雪殿ただ一人のみにぴったりと合致した——そう、感じているのは主のまったくの独りよがりで、彼女の他には、江雪殿でさえもそうは考えていなかったのですが、ともかく主にとっては江雪殿の存在こそが、耐え難い孤独の淵へ垂らされた救いの糸になり得たようなのでした。
江雪殿は物静かであるうえに、深くつきあってゆくうちに全くそうでないとわかるのですが、一見しただけではその視線や表情にどこか冷たいものを感じさせることもありましたので、顕現した当初は主との間にも距離があったように思えます。何か決定的なきっかけあったと言うよりは、春に雪が融けるように、拗れた糸がほどけるように、少しずつ、緊張と誤解を解きながら、両者は歩み寄っていったのでしょう。花を、鳥を、弱き命を慈しむ江雪殿に主が心を許したのは言うまでもありませんが、江雪殿も江雪殿で、主の、戦を嫌いながらも大切に思う者を戦に送り出すという矛盾に満ちた行為に、悲痛を隠しもしない顔であたるその、ある種の人間くささとでも言えるその一面に、何らかの感情を覚えたようでした。同情といったほうが適当であるかもしれません。
あるとき、あれは確か主が「春」の季節を手に入れた頃でしたが、江雪殿が二週間ほど近侍を勤めたことがありました。その頃の主には、政府から特別急ぎの用事も申しつけられておらず、ここ以外にもある様々な「本丸」と同様、まだ見ぬ刀剣男士を揃え、演練や手合わせに励み戦力の充実を図ることを推奨されていました。戦の続いた冬から一転、本丸の庭を彩る春の陽気のように穏やかな日々が、私たちに唐突にもたらされたのです。主はもちろん、たいへんに喜びました。
私などは、この本丸に来て戦のない日々など初めてのことでしたので、何をしていいのかわからず、そわそわと落ち着かない心地でした。刀剣の身であったころには、平穏な時代を何十年何百年過ごしてきたはずなのに、そういった時間を人の身で過ごすとなると、いったいどうしたものか、検討もつかない。畑当番や馬当番、手合わせや遠征など、何でも役割があれば良かったのですが、この頃になると刀剣の数も増えていましたから、任務を与えられない刀剣も数多くいました。その中でも私は特に、そういった余暇を過ごすことが苦手なほうのようでした。
困り果てると私は、いつも弟たちを手合わせに誘いました。弟たちもやはり刀ですから、実戦に近い形で刃を交える機会を喜びました。しかし、平穏が続くと彼らは徐々に、別の方法で余暇を過ごすことを覚えました。城下へ出かけたり、他の刀派の刀剣たちと庭で遊んだり。おそらくは、人としての喜びや楽しみを知ったのでしょう。その点で彼らは、私よりもずっと優秀な刀剣男士でした。私は「刀剣」である自覚はあっても、「男士」と呼ばれるには違和感を持つほどでしたので、まったく人のような振る舞いなど出来るものかと思っていましたし、したいとも思いませんでした。本丸の庭には桜が咲き、多くの男士たちはその花を褒め称え、喜びました。けれどそれすらも、私の心を動かすことはありませんでした。視覚を持つ前、刀剣の身で見た昔の桜のほうが、まだ風情があるように思えました。
そんな、私にはあまり居心地の良くない日々。ある日、江雪殿が主と共にいるのを見かけました。近侍なのだから少しもおかしくはないのですが、そのときの私にはどうにも、その光景が面白くなかった。自分の感じる居心地の悪さに対して、江雪殿が穏やかそうな顔を見せているのを恨めしく思ったということもあったでしょう。つまらぬ嫉妬と恨めしさから、私は二人の後をつけました。結論を言えば、変わったことは何もありませんでした。二人は河原へ向かい、土筆を採って帰りました。それだけでした。
ただ、江雪殿を見る主の目が、その時の、私の記憶に強く残りました。表面上は他の刀剣と差の無いよう、接していたので、それに気付かぬ者の方が多かったかもしれません。私も此処へ記すまでは、他の誰にも、それを語ることはありませんでした。
あれは、我が子を見る母の目でした。否……正確に言えば「我が子を見る母」の真似事をした、少女の目、といったほうがいいかもしれません。彼女は江雪殿を、我が子と思おうとしていたのでしょう。しかしそれは「人」ではない私の目にも、違和感のある姿となって映りました。何故そう思ったのかは、今となっては説明のできない、直感のようなものです。それでいて、確信でした。私が鋼の身体で見てきた「母」の姿とは、似ているようで、何かが決定的に違っていたのです。
私は先に、主の江雪殿への思いを独りよがりなものと批判しました。これについては反省せねばなりません。それを言ってしまえば、私が多くの刀剣の中から江雪殿を愛したのも、いったいどういう理屈かという話になるからです。それについて私は、どんな答えも返すことができません。人が人を愛するということは、たいへんに、難解なものです。柔と剛を併せ持つ、鋼でできた刀剣の身にはとても、できないことでしょう。軟らかな肉、斬れば痛み、血を流すもろい肉からなる弱い身体でこそ、なせるものなのでしょう。
そういえば、主がこの本丸へ来るまでに、家族を持っていたかどうかということは、とうとう聞くことがありませんでした(と言いますのは、手帳に記された、いつか聞いてみたいと思う、という記述のあとに続くものが何もないからです)。少なくとも、子を持ってはいなかっただろうと、私は思います。
悲しいかな、彼女は子を知らない。子を思う母を知らない。それは江雪殿にとっても同じでした。玉鋼は母を知らない。子を知らない。ああ、これは流石に、外から見ているしか出来なかった私の強すぎる思い込みの結果かもしれません。それでも。江雪殿の母になろうとした主が、本当は、どんな気持ちで彼を見ていたのか、私には知る由もありません。知る価値もありません。知ったところで、それを主に言ったところで、彼女は否定するでしょうから。
可哀想な主。愚かな主。あんなに弱い彼女を刀剣たちの「主」に仕立て上げた「政府」に対しては、疑いの気持ちばかりが湧きます。けれどそれも、もうどうでもいい。あのひとは折れ、主は消え、私はこのまま……このまま、どうなってしまうのか。
六
朝日が空に色を灯すのを見て、今日も自分の身体が消えていないことに安堵します。孤独を寂しがりながらも、孤独に生き延びたことに安堵します。孤独と死、人にとってより恐怖となるのはどちらなのでしょう。この問いに答えがあったとして、それを知る前に私の身はきっと、ここには存在しないのでしょうが。
貯蔵の食糧の減り方が、穏やかになってゆきます。刀剣男士の主な活動のひとつとして畑仕事があり、私たちは城の敷地内にある畑で作物を育て、それを食べますが、それとは別に政府から支給される食糧があります。それはおそらく週に一度くらいの頻度で、どういう仕組みかはわかりませんが、政府の計算に応じた量が貯蔵庫に直接届くようになっているようなのでした。先日、畑でとれるはずのない食糧が増えているのを見たので、支給は続いているようです。政府の認識では、この本丸はまだ稼働しているらしい。いくらなんでも、短期間に食糧の減り方がこんなにも変化するのはおかしいと思わないのでしょうか。否、それよりも、主がもういないことを政府は知らないのでしょうか。知っていて、この有様なのでしょうか。
あの日は春の雨でした。あの雨も、今思えば主が政府から貰った偽物の天候なのかもしれません。けれどその頃は、人の目で見る雨の珍しさに、我々は静かに心を動かしていたのでした。雨に濡れても錆びる心配のない人の身体は、しかし、冷えれば風邪を引きます。不思議なものです。江雪殿はそういう人の身を、愛しいものと呼びました。
彼の末の弟が、雨の中畑仕事をして風邪を引き、熱を出しました。我々はまだ、雨という天候が人の身に何をもたらすのか実感できていなかったのです。江雪殿の弟は感情をあまり表に出さないところがありますので、身体の辛さを秘めたまま働き、結果、倒れてしまったのでしょう。そういうところは、江雪殿によく似ていると思います。いとしくてかなしい、優しさです。
主はいつものように、たいへん慌てた様子で、政府に連絡を取ったりと、走り回っていました。その間、江雪殿はほとんどの時間を弟の側にいて、看病を続けました。時折、慌てるあまり無駄なことばかりしている主に忠告をしました。誰の言葉も耳に入らないと言った様子の主も、江雪殿の言葉は不思議と受け入れられるようで、その度に主は落ち着きを取り戻しました。
私は出陣の部隊に配属されておりましたので、戦場に向かい、帰還ののち、江雪殿と彼の弟のいる部屋へ向かいました。額に濡れた手拭いを載せた弟君はすやすやと寝息を立てていて、枕元に座していた江雪殿が、手招きして私を呼びました。江雪殿の隣にあぐらをかき、二人で彼の弟を見下ろす形になりました。熱のせいか、赤い顔をしていました。弟ばかりでなく主の面倒も見なければならない江雪殿は大変だと私が言うと、江雪殿はそうですねと、穏やかに微笑みました。その笑顔が、どうにも私以外のものに向けられている気がして、仲間外れにされて居るような気がして、私は拗ねたような気持ちになりました。それに気付いたのでしょう、いつの間にか私の顔を見ていた江雪殿の表情が、僅かに曇りました。
どうして、あんな顔をさせてしまったのだろう。どうして、あんな子供じみた感情を抱いてしまったのだろう。今思えば後悔するばかりなのに、そのとき私はさして気にも留めず、江雪殿も一度お休みになったらと提案して、彼の代わりに弟君の側にいると申し出ました。江雪殿は遠慮から、その申し出を断りましたが、私が動かないと見ると渋々承諾して、自室へと帰って行きました。彼のもう一人の弟はその日、長時間の遠征に出ていました。
その晩、主のもとへ政府から緊急の通達が入りました。夕方だったと思います。聞いたことのない、不快なサイレンが城中に鳴り響きました。何事かと、本丸のあちこちに散らばっていた男士たちが駆けてきました。わざとああしているのです。それほどに、緊急の事態ということです。その不快な音で、私は目覚めました。なんと情けないことか、私は江雪殿の弟の看病を代わると言いながら、眠ってしまったのです。慌てて立ち上がった私の肩から、毛布が落ちました。江雪殿だと思いました。休んで貰いたかった江雪殿に、私は結局のところ、余計な心配をかけてしまったのです。やってしまったという後悔と、不快なサイレンが呼び起こす胸騒ぎの中、横になっていた弟君がむくりと起きあがりました。高熱があるといえど、流石にこの音では眠っていられないでしょう。まだ顔は赤く、身のこなしもいつもより重い。寝ていろと言っても聞かないだろうと、私は半ば強引に彼を負ぶって、主のもとへ走りました。
緊急通達の内容は、我々の敵——歴史改変をもくろむ時間遡行群の一部が、本隊を外れ、刀剣男士を管理する本丸への攻撃を開始しているとのものでした。時間遡行群を操る歴史修正主義者の目的はあくまで、彼らに不都合な歴史を改編することですから、それを阻止しようとする我々と刃を交わすことにはなっても、直接こちらを狙ってくるということはそれまでありませんでした。また、政府が何らかの技術を使って、刀剣男士の拠点となる「本丸」を歴史修正主義者に見つからないよう隠していたことも大きい。自分たちの邪魔をしてくる刀剣男士の拠点を叩くという作戦はあり得ることですが、巧妙に隠されているものをわざわざ探し出すほどの時間は彼らにはないのでしょう。それに「本丸」はひとつではない。今もどこかで新しい「本丸」が生まれ、また別のところでは滅んでいる。叩いても叩いても、きりがないのです。
ですからそのときのことは、今でも、何故起こったのかも解らないのでした。後に聞いた政府の見解では、歴史の改編よりも刀剣男士自体への憎悪が強い一部が本丸を直接襲ったのではないかと予想されましたが、それについてもそもそも時間遡行群の刀剣には個々の意志や感情はあるのかすら、わからないことなので、取って付けたような論に過ぎません。後にも先にもこの時くらいの、不可解な出来事だったのです。
そして不幸にも、その特異な一団に狙われた本丸のひとつが、此処でした。もともと空回り気味であった上、一日の疲労で、主は疲れ果てていました。いつもより多い部隊が、遠征に向かっていました。悪条件の重なったところに、それは現れました。他人事としか思えないほどの、僅かな確率でしか起きえないことが、起こりました。それがこの本丸に起きたただひとつの事実でした。
その時主のすぐ側にいたのは、江雪殿でした。その日、江雪殿が近侍を命じられていたかどうかは覚えていませんが、主を守るため戦うことのできた唯一の刀剣が、江雪殿だったのです。時間遡行軍たちは目的を果たすため、標的のもとへ真っ直ぐに向かう傾向がありました。その時も、そうでした。本丸すべての刀剣男士を顕現させた、主。それだけを目掛けて、襲いかかりました。雨の夜に、狭い室内。太刀とっては最悪の戦場で、江雪殿は戦いました。疲労した身体で。主を守って。そして、折れました。その瞬間を、私は見ることもできませんでした。
城中の刀剣が、加勢しようと急いだでしょう。けれど敵は早かった。そして、一人で立ち向かうには多すぎた。疲労がたまっていたから。指示を出すものが居なかったから。ここが戦場ではなかったから。幾つもの理由が浮かんで、しかし、どれも真実でしょう。偶然が重なって、江雪殿は折れました。主が錯乱していなければ。江雪殿が疲れていなければ。時間遡行群が狙ったのがこの本丸でなければ。今更、何を考えたって、無駄なことです。江雪殿は折れました。それだけ。私の愛する人はもう、存在しない。
刀は戦のために生まれると、そう思っていました。戦のために生き戦の内に散るは当然のことと、そう思ってきました。そんなことは、全くの間違いでした。他でもない、私の心がそれは間違いだと叫んでいました。江雪殿のいのちが、こんなものに奪われて良いはずがない。江雪殿はこんなもののために生まれたんじゃない。生きたんじゃない。主を守った彼の誉を祝福することを、私の中の「人間」が拒みます。今更、思い知ったのです。私は愛する者の最期を目の当たりにして、これ以上ないほどに、「人間」でした。その後、主がどうしていたかは記憶にありません。折れて、玉鋼でできた欠片に戻った江雪殿を集めている背中を見たような気がします。それももうどうでも良かった。欠片を残しても、彼はもういない。
夜半、主はひとり、時空を超える扉を開けました。
私がそれを聞いたのは、翌朝になってからでした。日の光が眩くも、朝露の涼しい。私はいつの間にか眠っていたらしい。身体を起こすと、徐々に昨日の出来事が蘇ってきて、江雪殿がもう存在しないのだという実感だけが両手に溢れてきて、ひどくやるせない気持ちになりました。そんな折、主が姿を消したとの情報が飛び込んできたのです。もう、何もかもがどうでも良くなって、心だけを置き去りにして、本丸の非常事態に立ち向かいました。現状と、本丸中の男士の情報を合わせて、主はあの扉の先へ向かったのだという結論になりました。
いったい、何処へ行こうと言うのでしょう。あの扉を超えてゆけるのは「歴史」の舞台だけ。この本丸で起こったことを巻き戻そうとしても、歴史にもならない出来事を巻き戻そうとしても、不可能に決まっています。錯乱していたのでしょうか。それとも、わかっていて飛び込んだのでしょうか。刀剣のみしか超えることにできないはずの、時空の狭間に。
なんて愚かなのだろうと、思いました。そんなことをしても、何にもならない。そんなことでどうにかなるなら、自分が先にやっている。あまりに愚かで、ばかばかしくて、そのとき初めて、涙が出ました。他の者に悟られぬよう一粒だけ、それを拭いたら不思議と、冷静さを取り戻すことができました。
三日ほどの後、政府の者だと名乗る男がやってきました。主がいないので、最後に近侍を勤めていた、主の最初の刀が応対をしました。男は多くを語らず、近侍にひとつの包みを手渡しました。男の前で、近侍は包みを開きました。そこにあったのは砕け散った、金の銃兵の欠片でした。
近侍と、その一部始終を見守っていた我々が呆然と立ち尽くしている中、男は背を向けて去って行きました。それっきりでした。
主は、戦おうとしてあの扉に飛び込んだのでした。歴史を巻き戻せるなら、江雪殿が斬られる前に。それが叶わぬなら、せめて復讐を。そう考えたのかはわかりませんが、どちらにしても、あの憎き刀剣を、彼女の愛する者を奪った仇を、あの銃で撃ち抜いてやろうと、その為に時を遡った……ああ、それでは奴らと変わらない。主は、禁忌を犯した。我々刀剣が、もとの主の滅亡を目の当たりにしても、超えてはならぬあの一線を、超えてしまった。変えられもしないのに。なにも変わりはしないのに。ただ、無意味に時間を超えて、きっと、時空の狭間でねじ切られて、粉々に……彼女の欠片ひとつも残さないで。
誰もが言葉を失っていました。昼間の風が、沈黙の間を吹き抜けてゆきます。その時、頬に当たるものがありました。桜の花弁でした。
七
次に気がついたとき、私は自室の文机の前に居ました。光が、硝子を通して僅かに歪んで、手元に届きました。静寂でした。時折、鳥の声が聞こえました。よく晴れた日です。窓が四角く区切った視界を、薄紅の欠片がほろほろと横切っていきました。桜の花弁でした。春の日でした。
机の上にはまだ新しい記録用の冊子が一冊、置いてありました。灰青の表紙にはまだ何も書いてありません。開いてみると一言、江雪殿、と。
途端、脳が殴られたような衝撃が走りました。割れた脳から何か悪い液体が流れ出すように、嫌な予感が一瞬にして身体じゅうを駆けめぐってゆきました。胸が痛む。芯から緊張して、血は温度を失う。いてもたっても居られなくて、強ばる腕を無理矢理振り上げて立ち上がり、廊下へでました。けれど、走っても、走っても、何処の部屋にも、本丸の何処にも、ひとっこひとり見あたらない。誰かが居るような、気配はあるのです。それでも、姿が見えない。走り疲れた頃に、台所の前を通りました。喉がからからなのに気付いて、誘われるように流しのほうへ歩きました。蛇口を捻ろうとして、気付きました。誰かが使った形跡がある。やはり、彼らはまだこの本丸に居るのです。けれど、姿が見えない。もしくは、この本丸にいる誰ともすれ違って、決して誰とも出会えないように仕組まれているのだと、そう思いました。蛇口から溢れた水は誰かの形跡を消して、私の形跡をそこに残しました。
それよりも悪いことは、私は廊下を走りながら、一体誰を捜しているのか、だんだんとわからなくなってしまったのです。頭に浮かぶ、いくつかの名前。それは、全て名だたる名刀の名前。そうだ、自分は刀剣男士。歴史が正しくあるよう、戦うために人の身を与えられた、刀剣の魂。此処にいるのは皆、同じ使命のもとに集った者であったはず。
慌てて、自室に戻りました。そこは相変わらず春の日と静寂に満たされていて、私の焦燥とは無縁の世界に見えます。けれども、身体中を巡る冷たい血は勢いを緩めない。
机の上には相変わらずあの冊子が、今度は開いたまま置かれていました。呼吸を落ち着けながら、私は机につきました。そして、江雪殿と書かれたあの頁をめくり、次の一頁に思いつく限りの名前——ここに居たはずの、刀剣男士の名前を書き出しました。書き出せば、彼らの姿や人となりを思い浮かべることができました。よかった、覚えている。しかし、先程気がついたとき、否、目覚めたときと言ったほうが適当かもしれません。あのとき、あのまま立ち上がらなければ、思いだそうとしなければ、そのまま忘れていってしまったのではないか。その予想が、妙に確からしく思えて、私は恐ろしく思いました。仲間たちの名前を綴った頁を冊子から切り離して、いつでも持ち歩けるよう小さく折り畳みました。文机や、部屋中の箪笥を漁って、小さな手帳を見つけると、そこに挟みました。今からこれを常に持ち歩いて、思い出したことや気付いたことを何でも書こう。そして一日の終わりに、この冊子にまとめよう。そう、決意しました。
あの決心から幾日。気付いたことは、この本丸に居る刀剣男士の気配が日に日に、減っているということでした。今朝、私以外に本丸に残っていた、最後の一振りの気配が消えました。本物の静寂というものを知りました。なんと寂しいものでしょう。
「志半ばに散った英雄の魂が、植物の姿をとって生まれ変わるのは、ご存知」
ふと、主の言葉が蘇ってきました。以前この冊子にこの言葉を綴ったとき、私は、主のこの言葉が私の最後の記憶になるだろうと予想しました。
けれど、私にはまだ沢山の記憶があります。思い出しながら、付け足しながら、想像で補った記憶は真実とはほど遠いものかもしれません。けれど思いは、消せない。私が刀剣男士として、「人」として貫いた、それだけは。この身が消えるときもきっと、もってゆけるのです。
狂ったように夜空に散る桜に、自分自身の最後を思います。おそらくは私もあと、一日二日の存在。もしかしたら、この冊子の頁が増えることは、もう無いのかもしれません。そうしたら、主もやっと、この本丸での仕事を終えられるのでしょう。
主。あなたは今、私を連れて行こうとしている。あなたが愛した沢山の刀剣たちだけでなく、きっと疎ましかったであろう私まで、連れて行こうとするのですね。あなたの肉体は恐らく、時空の彼方で粉々になっていることでしょう。禁忌を犯したあなたは、魂すらも救われないかもしれない。けれど心は、愛に振り回された惨めな心だけが、今もここに残っている。あなたは英雄ではないが、後悔に苛まれた心はそれでも、花となり咲いたのですね。あの桜は悲しい。けれど今宵、美しくもあります。
私は今、あの桜をはじめて、美しいと思います。
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