五月の街(bnal犀朔)
風に散る花と言えば桜などがそうであるが、落ちるのを掴もうと手を出せば、指の間をすり抜けて何処かへいってしまう。そのくせ思いもよらぬ間に髪にしがみついていて、知らずに過ごして、忘れた頃にたまたま会った人などに笑われてやっと気付く、といったことがある。今私の目の前に落ちてくる花もそういう類のもので、しかしその花弁は桜にしては大ぶりで、厚みがあり、水気が多くぴちぴちとしていた。そもそもここは私の寝所で、今私は布団の中にいて、まさに眠ろうとするところを、この花は邪魔をするためだけにやって来たのだ。桜がこんな野暮な真似をするわけがない、と、故郷の桜並木をぼんやりと思う。ここ一週間ほど、夜になるといつも同じ花が私の寝所の天井のあたりを、ふにゃふにゃと漂っていた。白い花弁が次々と、部屋の中だというのにお構いなしに降り注いで、私の顔には触れないまま、布団に落ちる前に消えてしまうのだった。
さて今日こそひっつかまえて正体を吐かせてやろうと、落ちてくる一枚になんとか届きそうな右手を伸ばすが、指先で触る前に何処かへ消えてしまった。なんだか無性に腹が立って、なんだい、つまらないやつだな、などとわざわざ口に出して、行きたくもないのに便所に立つ。背後で花が笑っている。こうして争うのも七日目になるので、私はあの花の正体を知りつつあるが、その花だって本来そんな野暮な花ではないはずなので認めてしまうのはどうも気分が良くない。けれど、あれは薔薇である。花と呼ぶのもしゃくなほどに無粋な、けれども白い薔薇である。
それからどうして眠りについたかは覚えていないが、布団の上で朝を迎えていた。どうにも眠った気がしない、いつもより重い頭を抱えてやっと布団を出る。ここでは手伝いをしてくれる人などいないので、昨晩のうちに自分で用意した着物を自分で身につけるわけだが、気分が優れない朝となるとそれがどことなく寂しく感じるものである。
食堂に向かう廊下の曲がり角で司書が花瓶に花を飾っていて、目が合うとあら先生、おはようございますなどと挨拶をするが、何か言いたげな顔をしていた。お早う、俺の顔に何かついているかな。いいえ、そうではないのですけれどもどうにも顔色がよろしくないように見えて、などとやりとりをする。この、司書を務める少女はなかなかによく気のつくところがあって、しかもある意味で今生における自分の生みの親のひとりとも言えるものであったので、寝起きに感じた寂しさのこともあってついいきさつを話したのであった。
司書は若い娘らしい、ぴんと張って僅かに空を向く長いまつげを二度、ゆっくりと瞬かせると、こう言う。先生、それは夢ではありませんこと。
「こうも毎晩毎晩続く夢があるものか」
「それはそうですけれども、不思議ね、ふつう花というものは勝手に消えたり笑ったりしませんもの」
「そうだね、きみのいうとおり不思議だ」
ねえ先生知っています、夢に出てくるのはね、相手が会いたがっているからなんですって。だからそのお花も、先生に会いたくて会いたくて、何度もいらしているのかもしれませんわね。一連の出来事は司書の中では夢ということにすっかりまとまったらしい。あんな夢があったものかと不満に思う気持ちもなくはないが、その内容よりも話したこと自体が良かったのだろう、朝方の不快感は随分とうすれていた。会いたいのか、会いたいなんていうなら、結構かわいげのあるやつではないか。
八日目からは寝所に花は降らなかった。かわりに私は見知らぬ街にいて、花はその街に降り注いでいた。いつものように手のひらを差し出すと、花弁は指の間をすり抜けこそしなかったが、手のひらの肉に触れたとたん、雪のように溶けて無くなってしまった。そういうことならばこれは花弁でなく雪なのではないか、髪に肩にふらふらと降り続ける白いそれを見て誰かはそう言うかもしれないが、現にいまここにいる私がその可能性がきわめて低いと言うのは、この街が五月の街だからである。霜置いて固くなった大地を解き、まもなく来る夏に向けて空中の靄を押しやってゆく、そういう風が吹く五月の街に、私はいつも横開きの自動扉を潜って降り立つのだった。それが列車の扉であることに気付いたのは、この街へ来るようになって三日ほどたったときのことで、ちょうどその日の昼間に司書の遣いで列車を利用することがあったのだが、降りる時分になってふと、乗っていた列車の扉が夜毎に訪れる街への扉とよく似ていることに気付いたのである。勿論、昼間のことであったので、列車の自動扉を潜ってもたどり着くのは見慣れた隣町の駅であって五月の街ではない。五月の街には夜、眠るとき、布団の中からしかたどり着けない。いよいよこれは夢でしかあるまい、と、つい先日に少女と話した内容を思い出す。君の言うとおりであったよ、けれどもこうも毎晩毎晩続くというのは如何したものか。自動扉の向こう、すでに見慣れ始めた真っ直ぐな並木道の先を見つめながら今夜も思う。
その街は訪れるたびにいつも五月であった。とは言っても、その街の日めくりにそう書いてあるだとか、それこそ自動扉を抜けた駅舎にそういうものが吊り下がっているとか、いったわけではない。けれどもどういうわけか、私はそこが五月であると知っているのである、否、五月でしかないと言うべきかもしれない。さらに、重要なのは五月であるという事実だけで、それが何日であるかとか、天気云々はあまり意味がないようであった。晴れの日もあれば雨の日もあった。天気に構わず花が降り、よく風が吹いていた。風は真っ直ぐに伸びた並木道の枝を揺らしている。
そしてそのいずれかの木の下にいつも白い影があった。最初は遠くの、降り注ぐ花弁の向こう溶けそうに微かであったが、日毎に私に近づいてくる。花と同じ色をしていたので、最初はあの花弁が何か、例えば郵便ポストなんかに積もったものかとも考えたが、それにしてはふにゃふにゃと頼りなく揺らいでいた。揺らぎには見覚えがあったので、ある日、声がやっと届きそうな距離まで近づいたのを好機と返事が来るのを見越して、おいお前は何者だ、と問うと、返事のかわりに子供のような笑い声が返って来る。君がつまらないやつだなんて言うから、と笑うので、やっぱりあの花じゃないか、もう十日以上もつきまといやがって、おかげで俺はまともに眠れやしないんだ、などと内心苛つきながらも怒る気にはなれなかった。
面白いのはその次の夜からである。いつものように床につくと、間もなく五月の街に辿り着く。列車を降りて、これも徐々に認識するようになったことだが駅舎を出て、並木通りを望む場所に出る。その日はよく晴れていて、やはり風が吹いていて、花が降っている。しかしその花弁は昨日までとは違う、真白ではない、ほんのりと薄紅に染まっていた。それだけではなく、肌に触れると消えるには消えるのだが、雪のように溶けるのではなく、ゆっくりと色が抜けて、透明な花弁がしばらく残った後に透き通るように消えるのである。なんとも、名残惜しさを感じさせていけない。なんだい、こんな消えかたじゃあ、なんだか寂しいじゃないか。花弁の消えた手のひらから顔を上げると、白い影がふにゃふにゃと笑っている。俺が寂しがるのがそんなに嬉しいか、声は届いているようで、影が首を横に振った。昨日までとは違い、それが人の影だとはっきりわかった。影は花弁とは違って白いままだが、所々血が通ったように薄紅に色づいて、五月の日にみずみずしい。風が影の輪郭を揺らして、きっとあれは頬にかかる髪であるはずだ、風去って再度かたちを取り戻した影に宿るいっそう艶やかな紅が言葉を形作る。きみにあいたいよ、間違いでなければ、そう。
そうしているうちに結局、二週間もあの花に振り回されて過ぎてしまったのであった。白い影があいたい、と口にしてから、いやあれは私の憶測であるからもしかしたら全く別のことを言っていたのかもしれないが、ともかく薄紅に染まったくちびるが言葉の形に震えたあの日から、私は白い影を見失ってしまった。列車は夜毎に私をあの五月の街へ連れて行くのに、見慣れた並木の下にあのふにゃふにゃとした影はなかった。それでも二三日のうちは、完全に姿を消してはいなくて、時折、並木のどこかの木の陰に影がぽんわりと浮かんでは消えるということがあった。あれは人の形をしたあの影に違いない。けれども白というよりは透明で、私がその姿を目に留めた瞬間、まったく透き通って私はそれを見失ってしまうのだった。あいたいと言ったくせにどういうつもりなのか、それとも会いたがっていると思ったのが私の勘違いであって、ひょっとしたら私の物言いに腹でも立てて姿をくらませてしまったのかもしれない。なんだ、そうだったのか、知らず知らずのうちに期待の念を抱いて、司書の少女の思いつきの言葉を信じ込んでいたのかもしれなかった。
落ちてくる花弁だけが日に日に赤を濃くしていた。白い影が消えた並木通りはよく見てみれば硝子のように透明で、雲の天井を透かしたようなぼんやりとした光を掴んでは空気中に逃がしていた。二十日目、気まぐれに私のもとへ降りてきた花弁は火のように赤く、みずみずしく、手のひらに載せても消えずに少し震えて、風に吹かれて並木通りの向こうへ飛んでいってしまった。初めてそれに触れた気がした。
翌朝のことであった。いつものようにひとりで用意した着物をひとりで着、寮棟の庭とそこに住み着いた猫の世話をしてから、朝食をとって図書館の本部棟へ向かう。図書館での仕事は職員によって様々であるが、毎朝まずはこの本部棟を訪れ、出席簿に印を押すことになっていた。印面が朱肉をうまく捉えられなかったか、日を刻むマス目の上を昨日にはみ出すように、くしゃけた印影が踊った。それを見るものがある。司書の少女であった。
あの先生、お願いしたい仕事があったのですけれど。いつになく遠慮がちな様子で、気まずそうに少女が言う。どうしたんだい、そんな遠慮してしまって。と、振り向くと、いえ、先生ね、なんだかまたお顔の色がよろしくないでしょう、それで、頼むのも気が引けてしまって。などと言う。そういう自覚はなかったので、驚いてしまった。顔色が良くないなんていうのは、今朝、鏡を見たときにも、いや、今朝は鏡を見ただろうか。身なりにはまあ、人並みに気を遣うほうだと自負していたが、こうなってしまえば案外重傷である。けれども、身体が悪い自覚もないから、働かぬわけにもいかなかった。仮にこのまま休んでいても、何をしていいかわからぬ。私は迷わず少女の頼みの仕事を引き受けることにした。
少女は一冊の本を私に差し出す。この青い表紙は私も知っている、有魂書と呼ばれる特別な本だ。この図書館に勤める「文豪」と呼ばれる者たち、私もそのひとりであるが、彼らはみな過去に文士として活動し命を終えたものが書物から「転生」させられて再び生を得た存在である、らしい。転生、とは言うが、新たな命を生まれ直すというよりは生前とは似つかぬ姿形と、自分の記憶と著作の中の記憶が入り交じったようなまだらの記憶を持って、眠りから目覚めるようなものである。錬金術というあやしげな業によるものらしく、考えてみれば薄気味の悪い話ではあるが、これを行うのは目の前にいるこの少女である。そう思えばそこまで悪い気はしなくて、今となってはこの新たな生の仕掛け人のひとりである彼女に、不思議な親しみすら感じていた。
さて、この有魂書はまさに誰か文豪の魂を宿したものであるが、魂はひとりで本から出てくることができない。別の誰かがこの本の中に潜り、奥に沈んでいる魂を引っ張り上げなくてはならないのだ。それをできるのはすでに転生した「文豪」だけ。すなわち彼女は私にこの本へ潜れといっているのだった。
「夢の話を聞いてからずっと、先生にお願いしたいと思っていたんです、最初は確信が持てなかったのですけれど、会いたいとおっしゃるのがようやく、私にも聞こえたので」
こんなに強い気持ちを聞いたのは始めてだと、はにかみながら言う、少女の期待とそれから、「彼」の願いには答えてやらねばと思った。浸食された有碍書に潜り戦うことは何度もあっても、有魂書に潜るのは始めてであった。司書の少女の案内で、潜書の業を開始する。本を開いた瞬間から私の意識は肉体から外され、瓶の蓋を開けるような音が頭のかたすみで破裂するのだけが響いた。風呂に入って湯気の中で目を閉じるような、床屋で髪を触られているうちに眠ってしまったときのような、そういうものにどこか似ていた。
目を開けたときにどんな景色が現れるのかを、私は知っていたように思う。ガタアン、と鉄が鉄を踏む音で私は目を覚まし、この物語に登場する私は眠っているところから始まるのだと理解した。意外と早かったな、と思ったのは、目覚めたのが列車の中だったからである。窓からは線路の周りに広がる土地を見渡すことができたが、どれも知らぬかたちをしていて、見慣れぬ景色を見送って、列車は見慣れた駅に沈んでゆく。そして自動扉はいつものように、私の目前で真横に開いた。車輪の音以外、ずいぶんと静かな場所である。よく考えれば列車の中でもそうであったが、駅舎にもひとっこひとりいなかった。相変わらず日めくりのひとつもないが、やはり五月であった。そして私はこの先の景色をやはり知っていて、待つ者も、それに会うために、ここに来たのだということもやはり、知っていたのである。
駅舎から一歩出ると、やはりそこには薔薇が降っていた。今までで一番鮮やかに赤い。薔薇に満たされた世界にはやはり、並木通りがあった。その木々の下から、近づいて来る。揺れる髪に頬の薄紅が、血の色のくちびるが隠されては現れる。遅いよ。顔を見るなりそう言うので、少しは感傷にでも浸ろうと思った気持ちをくじかれて吹き出してしまった。ああそうか、きみの目は青い色をしていたのか。肌は思ったよりは白くなくて、お世辞にも生き生きとしてはいなかったが、生きていた。今まで見たどの夢よりも側にいた。手を伸ばせば届く距離で、吠瑠璃の目は向こう側に透けてしまわない炎の光を宿して、生き物の宿命を知っていた。透明になって消えてしまうことはもうないのだとわかっているのに、私はどうしても、手を伸ばすことができなかった。
「なんだその言いぐさは、やっと会えたって言うのに」
「自分はちゃんと会いたいって言ったよ、けれども君はちっとも来てくれないんだもの」
「会いに行こうとしたってすぐ消えちまうのはお前のほうだろう、追いかけようとしても、透明に姿をくらましちゃあ何処にいるのかもわからない」
「酷いな、自分はずっと此処にいたのに、君が見失ってしまっただけじゃないの」
そうだったのか、そんなはずあるか、でも、きみの言うとおりかもしれない。そうやって強情を解かれてしまうような雰囲気がきみにはあった。きみはもうふにゃふにゃと揺らぐ影ではなかったが、日々の枷から解き放たれた生き物のようにくにゃりと笑った。そのまんなかに、背骨のような芯が一本、真っ直ぐに立っていた。
見せたいものが、いや、君が見なくてはいけないものがあるんだ。そう言うと、ついて来いということだろう、羽織の裾を大げさにひるがえし、背中を向けて走り出した。でたらめに結んだ帯が後れて、尾のように空を叩きながらきみの後を追っていた。もつれるような足取りが嘘のように軽やかで、目に見えるよりもっずっとはやく、きみはいつも私を置いてゆく。だから今度こそ私は見失ってはならないのだ。
きみは五月の街をゆく。硝子の並木の下、こするように石畳を蹴って、運動などそう得意ではないだろうに、いのちいっぱい駆けてゆく。手に触れることはできないから、ちょうどよい距離をとって、私はそれを追いかけた。尾のような帯が触れそうで触れないのが、それでいいと思う私を妙に寂しい気持ちにさせるが、けれどそれは同時に私に与えられる道標のようにも思えて、ただ夢中で追いかけた。
鼻を通り越してこめかみのあたりに、草の青い匂いがつんと飛び込むと、いつの間にか私たちは石畳の並木道を抜けて若草の上にいた。図書館に転生させられるときに若い身体を貰ってはいたが、それにしても、どんなに走っても息が切れない。ここは夢の延長のような世界らしい。絶えることなく降り続く薔薇の雨と風の中、裸足の足をすりつぶした草の色に染めながら、きみはなおも進む。やがて草の匂いが深く、水の味わいを帯びてくると、いつの間にかあたりが薄暗い。見上げると頭上に松林があって、ゆっくりと呼吸をしていた。どこか懐かしいような心地がして、心ここにあらずだったに違いない、次の瞬間私は、草履越しの柔らかな地面に気まぐれに盛り上がった松の根に、足を引っかけて躓いてしまった。盛大に前のめりになるのをこらえてやっと、体勢を立て直すと、くすくすと笑う声が聞こえてきた。もうすぐだよ。きみは言う。淡い光を抱く睫を被った吠瑠璃の目が私をとらえて、心臓がどくり、と音を立てた。
間もなく視界が開ける。もうすぐ、の先にあったのは、火の色をした薔薇の庭であった。右から、左から庭園をぐるりと縁取るように存在する垣根はすべて薔薇の茂みで、目の前、庭園の中央に置かれた白い噴水は水が落ちる段ごとに薔薇で飾られ、そこから八方に延びる道の周りはすべてあらゆる形の薔薇で埋め尽くされ、私たち二人を見下ろすアーチもまた、骨組がすっかり隠れるほどの勢いで巻き付いた蔓薔薇が思い思いに花をつけていた。それらはすべて深い深い赤い色をしていた。私の夢の、二十日目の薔薇の色をしていた。
最初はみんな白かったんだよ、けれど、君が此処に血を与えた。
一寸の迷いも見せず、アーチをくぐりながら平然ときみは言う。言葉の意味はわかるような気も、わからないような気もした。あの薔薇の花弁と過ごした二十の夜のうち、私の言葉に少しずつひとの形を取り戻していったきみが、きみの頬が、くちびるが、白かった花弁とともに赤を宿していった、それがきみにとってはそういった意味を持っていたのだろう。けれどもそれがどうして私だったのかは、やはりわからない。
「お前はもっと、いろんな色があるほうが好きじゃないのか」
「うん、そうだね、そうかも、でもこれは、君の色だから、これでいいんだ」
私は司書の少女の言葉を思い出していた。先生に会いたくて会いたくて、何度もいらしているのかもしれませんわね。会いたかったのは、果たしてどちらだろうか。会いたくて会いたくて、私がきみにこの色を与えたのではないだろうか。火の色を。血の色を。
庭園に残された最後の白、今にも赤い薔薇に飲み込まれそうな石造りの噴水の縁に、私たちは並んで腰掛けた。二人を囲む庭は薔薇の赤に満たされ、視界にはやはり赤い薔薇の花弁が絶えることなく降り続いて、さっきまで居たはずの松林はもう見えない。そうしてしばらくたった後、私は私のななめ向かいにある茂みに咲いた薔薇の花弁が、ふくふくと震え出したのに気付いた。よく見ればその隣、そのまた隣の薔薇もまた震えていて、しまいには庭全体がふくふくと震えている。五月の街には相変わらず風が吹いているから、そのせいかもしれない。けれども私にはなぜだか、それが生き物の呼吸のように見えてならない。そんな私の様子に気付いたのだろう。きみは私に寄り添い、楽しげな表情で耳の側にくちびるを近づけてこう言う。もうすぐだよ。
まさにそのとき、降り続いていた花弁に終わりが来た。最後のひとつが地に降り、小さな炎のように燃えて消える。それを合図に、萼の上で震えていた花たちがその鼓動をいっそう大きくし、どく、と脈打つその返りで空へ飛び出した、いや、あれは泳ぎだしたのだ。あれは魚だ。赤い魚。火の魚。さっきまで薔薇の花弁だったものはみな、炎の色をした魚になった。
きみは瞬きも忘れ、魚たちが空へ泳ぎだしたのを見ていた。空に薔薇が降らなくなったかわりに、赤い魚が埋め尽くした。魚は空を、さっきまで自分たちを抱いていた茂みの周りを踊るようにゆうゆうと泳いでいる。私はそれをただ、美しいと思った。きみの目にもそう見えていたらいいと、そう思った。
ここはもう、君の世界になったんだよ。泳ぎ回る魚たちを見つめたまま、きみが言う。
「薔薇は魚に、風は水の流れになった。ここは君の世界だ。戻ることも留まることもできるけど、どうする」
「きまっているさ、お前を連れて帰るんだ」
「帰るって、どこへ」
「俺たちの新しい家だよ」
「へんなの、僕はそこへ、一度も行ったことがないのに」
睫を振るわせて微笑むのが、何故か泣いているように見えた。きみは胸に、一本の赤い薔薇を抱いていた。他の薔薇が空へ泳いでいったというのに、その薔薇だけは鼓動する様子もなく、静かにきみの右手に収まっている。
「これは風の薔薇だから、なくなったりしないし、僕はもう何処へでも行けるんだ」
きみはそう言うが、私にはわかる。私はその花をきみの手から奪い去らなくてはならない。そのために此処へ来たのだ。棘のない茎を握った指を一本ずつ、ゆっくりとひらいてゆく。ひらいてゆけるということは、生きているということだ。きみはくすぐったそうに、でも黙って、その右手を私に差し出していた。いつかはじめて色を宿した花弁のように、血の色を滲ませた頬に、落ちる睫の影が静かに、新しい一生を受け入れる覚悟をしていた。すっかり開ききると、手のひらの花、その赤い薔薇を奪ってかわりに私の左手を繋ぐ。ほんとうにいいのかと、聞けなかった。断られるのがおそろしかった。けれどもきみはおれの手を握った。こんなに確かな約束があるものか。
松林の吐き出した水の息が、肩のあたりでだんだんと重くなって、間もなく川の流れに変わる。魚ではない私たちは水の中で息をできないから、そろそろ此処を出なくてはならないのだと、頭より先に体が理解していた。俺のつくった世界のくせになんで俺を追い出そうとするんだ、などと文句を言っていると、君がもう帰りたいと思っているからじゃないの、ときみは笑う。きっとそうなのだろう、此処に居たくないわけじゃあないが、私は一刻も早くきみを連れて帰らなければいけないのだ。徐々に苦しくなる息が終わりの合図だ、空いっぱいの火の魚に背を向けて、川底になりかけている柔らかな地面を思いっきり蹴飛ばす。思ったよりも勢いよく浮かび上がって、空をもうひと蹴りすると二人分の重さを空へ持ち上げた。どうぞ、お気をつけて。背後で魚たちが合唱している。暖かくなったら、また、きっと来るよ。何故だか、そんな言葉を返していた。上空には流れがあったので、先ほどよりも軽い蹴りで進むことができた。これならあの駅へ戻って、来るかもわからない列車を待たなくても帰れるだろう。そんなことを考えながら、左手の先を振り返ると、相変わらずきみはそこにいて、犀、泣いているの、と首を傾げていた。
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