マリーゴールドの話(bnal朔+司書)
ブンアル朔ちゃんと少女司書が花が魚になるところを見る話。恋愛ではないけれど夢小説だと思います。
ある日、十月の長く続いた雨が止み、鈍い黄金色を含んだ日が、乾いて冷たくなった空気に溶けていた。朝晩冷え込ますねと、図書館を訪れる利用者と世間話を交わしたのが数日前、今や日中ですらすっかり冷え込んでいる。特務司書と呼ばれる女、司書とは言ったもののレファレンス・カウンターなどに座ることのない彼女は、閲覧室と書庫、それから司書室を行ったり来たりする中の、ほんの合間に利用者と挨拶を交わす。それほど社交的な様子もない若者で、おそらくは実習生か、学生のアルバイトだと思われているのだろう。
その日も彼女は閲覧室と書庫、それから司書室の間を忙しく駆け回っていた。十月最後の日だった。図書館棟と司書室のある棟を繋ぐ、渡り廊下へ出たとき、前方によく知った背中を見つける。最近助手の仕事を頼んでいる萩原であった。
渡り廊下から見える中庭に視線を向けていた萩原に声をかけようと、少女は立ち止まった、そのときである。少女の視界、左側の空が急に橙色に染まった。何かと思ってそちらを見ると、中庭に咲いたマリーゴールドの花が、一斉に空へと泳ぎだしていた。マリーゴールドたちが魚になったのだ。
彼女は花が魚になる瞬間を見たことがなかったので、驚いて、飛び立つ瞬間を記憶することを忘れてしまった。急いで魚の行方を追うも、魚達はなかなか素早く、どんどんと泳いで遠くの空でもう随分小さくなっている。
「朔先生、朔先生」
興奮を押さえられぬまま、少女は萩原に駆け寄った。萩原は魚の飛び立った空を瞬きもせずに見ていたが、少女の声で我に返ったらしい、大きく瞬きをして、振り向いた。
「君も、見たの」
「見た。私、はじめてよ。目の前で泳ぎだしたの」
「自分もだ」
お互い、人の目を見て話すのは苦手の筈なのに、そういう自分の性質も忘れて高揚をぶつけ合う。
「少し前から、犀が、尾びれが震えてるからもうすぐ泳ぎ出すなあ、って言ってて、でも雨が続いて泳げなかったんだ。今日、晴れたから」
「どうしよう、犀先生も見たかったかしら。朔先生も犀先生と見たほうがよかったのではなくて。私ではなく」
「いいんだ、それは。それに犀は、前に見たことあるって」
「そう、それなら、だいじょうぶかしら」
高揚と動揺が入り交じって、少女はもう涙が出そうだ。世界のどこでも起こっている、世の常である自然現象を、目の当たりにしただけでどうしてこんなにも動かされるのかわからなかった。その点で、さすがは年長者である萩原はいくらか早く落ち着きを取り戻し、少女を中庭のベンチへ座らせると、深呼吸をさせた。
「驚いたね、花ってあんなふうに泳ぐんだ」
「犀先生には、もう花びらが尾びれに見えていたのね」
「そうだね。やっぱり犀は、庭が好きなだけあるよ」
萩原もベンチへ腰掛けると、もう一度空を見上げる。遠くの空が僅かに橙色に霞んでいるようにも見えたが、それも定かではないし、おそらくは二人の希望がそう見せたのだろう。
空へと泳ぎだした魚はやがて海へとたどり着く。海の塩分で枯れて、腐って、底へ沈んだ魚達は、そのうち海の一部になって、海水の蒸発と共に天へ昇る。天へと昇った魚達は、そこで白い花として咲く。天上でいっぱいになった白い花は端からこぼれ落ちで、雨となって地へ降り注ぐ。その繰り返しである。
「知っていることでも、実際に体験するととても神秘的なことのように思うわね」
「そうだね、昨日までの雨も、ずっと前にはどこかの庭に咲いた魚だったんだ」
「そう思うと、ふしぎね」
そのころにはもう、目を合わせられない二人に戻っていて、かみ合わない視線で言葉だけを宙に投げ出していた。花壇だった中庭には、花を失った緑が寂しげに揺れている。明日にはきっと、枯れてしまうだろう。
「ねえ朔先生、魚を失った葉や茎は、一体どうなるの」
「ここで枯れて砂や土になるんだ。人間と同じだよ」
萩原が中庭を指さす。その指を引っ込める流れで、口元で、そっと考えるような仕草をした。
「砂になったら、孤独でなくなるかな」
こぼれ落ちる砂のような声であった。朔先生はきっと、きれいな宝石になる。そう言おうとした唇を、少女は静かに結んだ。どこにでもあってどこへでも交じってゆく砂ではなく、唯一無二の光を放ち、何者とも交じってしまわない宝石。それは果たして彼にとって良いことなのか、わからなかったからだ。言葉を飲み込んだら何も言えなくなって、それから二人、黙ったまま動けない。
十月最後の空は、鈍い黄金色を溶かしてきらきらときらめく。あのきらきらはかつて命であった宝石の光だと、少女は思った。そういう話は聞いたことがないし、彼女が読んだどの本にも書いてなかったけれど、きっとそうだと彼女には思えた。砂にまぎれた宝石の粒が、日の光を反射して、空気の中にきらきらを返しているのだ。何百年も前から。何百年経っても。
「とはいえもう、一度は死んでいるのだけれどね」
萩原が笑う。親しい者に見せるあどけない笑顔ではなく、自分の前で見せる大人の表情だと少女は知っていた。どこか照れくさそうにしているのが、好ましいと思う。
百年以上も前、彼が一生をかけて育て地に帰った宝石の粒。それらが空気中に振りまいたたくさんの、たくさんのきらきらを集め、人と人という形で出会ってから間もなく、一年になる。マリーゴールドの去ってしまった庭は寂しい色をしているけれど、空気は相変わらず色とりどりに光っていて、ああ、宝石になるような人は個性的だから、あんなに色とりどりに光っているのだろう。少女はそっと目を閉じた。予報によれば明日も晴れるらしい。きっとマリーゴールドたちも、無事に海へ辿り着けるだろう。
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